動物園前一番街 近隣地域紹介ページ
写真をクリックしてください。
通天閣 てんのじ村記念碑 飛田大門 鯛よし百番 |
天王寺公園 大阪市立美術館 天王寺動物園 あべのハルカス |
HOMEPAGE
天王寺公園
明治42年(1909)に開設された、長い歴史を持つ公園。 起伏に富んだ約28.2haの広さにのぼる園内には、旧住友家の名園・慶沢園や 茶臼山、市立美術館、天王寺動物園などがある。 沈床花壇やバラのアーチなどの見所のほか、七夕の笹飾りや、 クリスマスツリー展示など季節折々の展示やイベントも行っている。 所在地: 〒543-0063 大阪府大阪市 天王寺区茶臼山町1−108 大阪市立美術館事務所 |
大阪市立美術館
大阪市立美術館は、市民が優れた美術文化に接する機会を提供し、 生活に潤いを もたらすとともに、美術家の活動を助成し、 ひろく大阪の文化振興に資することを目 的として、昭和11年5月に開館しました 。 美術館は、天王寺公園の中に位置していますが、その敷地は住友家の本家が あった所で、美術館の建設を目的に庭園とともに大阪市に寄贈されたものです。 所在地: 〒543-0063 大阪府大阪市 天王寺区茶臼山町1−108 大阪市立美術館事務所 |
大阪市天王寺動物園は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある大阪市立の動物園。 1915年1月1日に、日本で3番目の動物園として開園。面積約11ヘクタールの園内に、 約200種900点の動物が飼育されている都市型総合動物園。通称・天王寺動物園。 2006年7月16日に、総有料入園者数が1億人を超えた。 所在地: 〒543-0063 大阪府大阪市 天王寺区茶臼山町1−108 大阪市立美術館事務所 |
近畿日本鉄道の前身である大阪鉄道が大阪阿部野橋駅構内で1937年(昭和12年)から 営業を行ってきた阿部野橋ターミナルビル旧本館(百貨店西館)の建替計画により 建築された建物であり、建築規模は高さ300m、延床面積21万2,000m²、地上60階・地下5階である。 2011年2月から地上工事が始まり、2014年3月に竣工、同年3月7日にグランドオープンした。 工事中の2012年8月時点で高さ300mに到達し横浜ランドマークタワー(高さ296m)の高さを抜き、 「日本一高いビル」の称号が大阪に移った。 旧本館の老朽化に伴う建替計画は、2006年の秋ごろから具体的な検討作業が始まった。 計画当初は航空法による高さ制限が約295mの制限区域に入っていたために、 270m前後の高さを予定していたが、2007年春の航空法の改正により制限がなくなったことを受け、 日本一の高さとなるビルを建設する計画へ変更し、 同年8月8日に総事業費約1,300億円をかけ高さ300mの 超高層ビルに建て替える計画を発表した。300mとした理由については、 切りの良い数字であり、日本初のスーパートールになることと、 高さ制限が青天井ではいずれ抜かされるところまで考慮したものであり、 同日の記者会見で近鉄の岡本直之副社長(当時)は 「平成の通天閣として親しまれるビルにしたい」と意気込みを語った。 |
通天閣は、大阪府大阪市浪速区にある新世界の中心部に建つ展望塔である。 2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった。公式キャラクターは「ビリケン」。 大阪の観光名所として知られる。 初代通天閣は、仏・パリのエッフェル塔と凱旋門を模して合体させたような「遊び心」あふれる造りだった。完成したのは1912年7月、1903年に開かれた第5回内国勧業博覧会の跡地に建てられた。 この跡地の西半分に、通天閣と都市型遊園地「ルナパーク」を中心とした「新世界」が誕生。周辺には映画館や飲食店が軒を列ね、一大歓楽街となった。 高さは75メートルで当時としては東洋一。 展望台からは六甲、生駒、金剛の山々などが見渡せたという。 約3万個のイルミネーションで飾られ、塔の下はアーチ状になっていた。 所在地: 〒556-0002 大阪府大阪市浪速区恵美須東1丁目18−6 |
JR環状線新今宮駅を出て、道を天王寺方面に歩いていくと、 阪神高速松原線が上を走る。そのそばに、大きな碑が立っている。 「上方演芸発祥の地、てんのじ村記念碑」である。 直木賞作家難波利三さんの「てんのじ村」の舞台となったまちで、 今の西成区山王あたりになる。 1889年(明治22年)に町村 制の天王寺村ができたが、大阪市の市域拡張が行われるように なって、天王寺村の一部が南区や天王寺区などに編入されていき、 このあたりも1925年(大正14年)には西成区に編入された。 最後まで残ったことから、その後もこのあたりを「てんのじ村」と 呼ぶようになったという。 ここは道頓堀や千日前、そして新世界などの演芸街に近かったため、 全国各地から芸人たちが集まり、1945~55年(昭和20~30年)ごろ の最盛期には300人以上が住んでいた。角帯姿や三味線を持った芸人 が行き交い、長屋をはさんで、稽古の声や音が、夜遅くまでこだましたと 言われる。すぐそばの新世界に通じる商店街の「ジャンジャン横丁」は、 この演芸街の三味線の音から名づけられたという。 |
旧飛田遊郭大門跡。 かつて飛田新地が遊郭として賑やかだった頃(遊郭が昔は合法だった)、 西側にはそのメインゲートとして大門(おおもん)があり、 その周りを遊郭と外の世界を断絶するかのようにコンクリートの壁に囲まれていました。 今は、大門と高い壁のモニュメント、そして石碑が飛田大門交番の向かいに遺されています。 明治四十五年の火災によって廃止となった難波新地の遊郭の代替地として、 飛田遊郭は大正七年に開郭しました。 飛田大門は、開郭当時から飛田新地の玄関口として機能していました。 そして、昭十二年に遊客数として松島新地を上回りました。 昭和二十年には太平洋戦争で大門通りの南側の東の一部と西部を消失しましたが、 大門は消失を免れました。 その後、昭和三十三年に飛田遊郭は廃止となりましたが、 飛田大門は当時の面影を伝えるものとして、現在も地域の人々に親しまれています。 |
鯛よし百番は、1918年頃に竣工。木造2階建。 大正初期に飛田新地の遊郭として建てられ、戦災を免れ、戦後は改装され料亭として使われています。 飛田遊郭発足時の佇まいを今に残す「鯛よし百番」も、また遊郭建築の一つで、その建物は遊郭とういうジャンルの建物としては珍しく1999年に文化庁有形文化財の指定を受けています。 |
木製看板 高度成長期、酒店は夕方になると仕事を終えた周辺の労働者を中心に大変な賑わいで、当然飲むのも酒が中心、古き良き時代の清酒の人気が思い起こされます。 当時こうした特約店に酒造会社から贈られた木製看板が今も玄関を飾ります。 |
|
うだつ 多良福と丸亀の間に残る「うだつ」戦前多良福の場所には銀行があり防火のため、丸亀との間に30cmの防火塀を設置した、そこに装飾と火の粉の舞い込み防止のため「うだつ」を取り付けた。(うだつは平安期の建築に始まるが、江戸中期から隣家からの類焼をためと装飾としての造形化が進む。) 徳島県の観光情報サイト(阿波ナビ)に「脇町うだつの町並み」があります、ご覧下さい。http://www.awanavi.jp/sopt/2013032502051 |
|
大正ロマンの飾り窓 動物園前一番街には、先の大戦の被災を逃れた商店がいくつかあります。それらは入り窓で緩やかな曲面を取り入れ、タイルによる壁面装飾が施されており、大正ロマンの雰囲気を保っています。 |
|
昭和の看板 昭和期、商店街には必ず電気屋さんがあり、電球の交換からテレビ・ステレオ・洗濯機などなど、家や店舗の電気の面倒を見てくれたものです。そんな電気屋さんも高齢でお店も辞めてしまわれましたが、特約店当時のナショナル(現パナソニック)の看板はのこりました。 |